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当皈より あはれは塚の 菫草
 
   
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芭蕉-すみれ、PART-2

 芭蕉が山路にすみれを"何やらゆかし"と詠んだ句は、あまりにも有名ですが、もう一句、芭蕉はすみれを詠んでいます。

 当皈より あはれは塚の 菫草

 出羽の図司呂丸を悼 - と前書きがあり、追悼句であることから興味をもち、その背景を探ってみました。

注・当皈-当帰 (トウキ) セリ科の多年草草本。夏に白い5弁の花をつけ、その根を干して薬用にする。当帰がマサニ帰ルベシとよめることから、中国で旅行中の人が故郷を想う詩によく用いたそうです。

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a  元禄2年3月、「おくのほそ道」へ旅立った芭蕉は、6月3日、旅のクライマックスとなる羽黒山に到着。手向村に着くと、図司左吉の家を訪ねています。左吉は山伏たちの摺り衣を染めるのが生業の、30才そこそこの人で、俳号を呂丸といい、俳諧に非常に熱心な人だったようです。
 うわさに聞く蕉風に心をひかれ、芭蕉の到着をまちのぞんでいたようです。芭蕉の羽黒7日間の滞在中は、何くれとなく世話をし、また俳諧について親しく指導を受けて蕉門となったそうです。

 元禄5年秋、呂丸は江戸に出て芭蕉に会い、さらに京都に足をのばし、翌年2月、去来宅で客死しています。
 芭蕉は呂丸が京都で亡くなったことを、3月はじめ、酒堂 (近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮) の書簡によって初めて知りました。
翌日、さっそく呂丸と同郷、折から江戸詰めで在府中の鶴岡藩士、公羽 (俳号) にそのことを急報し、さらに数日後書簡を送り「誠、無定世中、又是程不憫成事モ、近年覚申ズ候」
「マコトニ、サダメノナキヨノナカ、マタコレホドフビンナルコトモ、キンネンオボエモウサズソウロウ」と書いています。
句はこのころの作で、芭蕉が眼前に呂丸の墓に咲くすみれを見て詠んだものでなく、想像して詠んだものと思われます。

 江戸で別れて旅立っていった呂丸には「マサニ帰ルベシ」とよめる当帰 (トウキ) の花が、中国の故郷を思う漢詩にもよく詠まれていてふさわしいが、今、死の報らせを受けて故人のことを思っていると、故人の墓のあたりには可憐なすみれが咲いていることだろうと偲ばれ、そのほうが当帰の花よりも一層あわれで、また、呂丸にはふさわしく感じられる・・・・・うなだれて咲くすみれの姿を思うと、呂丸に対する芭蕉の深い悲しみが伝わり、また、呂丸の人となりが想像できます。
 何やらゆかし、とすみれを詠んだ句以上に、芭蕉のすみれ観が伝わってきます。


当皈より あはれは塚の 菫草



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