top50

江 戸 名 所 花 暦
   
tea time MENU  HOME
2004/2/10 
a


 東京都内において、多くのすみれを楽しめる所といえば、今では、高尾山や奥多摩まで足を延ばさなければなりませんが、江戸時代にはすみれはもっと身近かな植物として、花を中心とした名所案内書に紹介されています。
 「江戸名所花暦」がそれで、岡山鳥著、『江戸名所圖會』 の画家 長谷川雪旦が絵 (墨版のみ) を描いた江戸の名所案内地誌に案内されています。現在でいえば観光ガイドブックといったところでしょうか。

 文政11年(1827)刊。 春夏秋冬を43の項目に分類し、その名所の故事来歴、訪ねる季節、道案内などを記しています。 人気があったとみえて同年秋には再刊され、天保8年(1837)には 『江戸遊覧花暦』として三版、明治26年に第四版が刊行されています。

 「春之部」には、鶯、梅、椿、桃、彼岸桜、桜、梨、山吹、菫草(すみれ)、桜草の順に案内されていますが、自生する野草を紹介しているのは四季を通じて「春之部」の菫と桜草だけで(秋の七草は、向島花屋敷の百花園での栽培品を紹介)すみれ愛好者としては嬉しいことです。

 次のように書かれています。

○ 菫草 (すみれ)

・ ゆるき橋の辺 同七十五、六日頃品川東海寺うしろ、目黒への道すち
・居木橋、俗よんて震はしといふは非なり。荒木田の原 千住と尾久のあひたの原、おひたたしきすみれ也。前は川にのそみて絶景の地なり。春は遊客。酒肴をもたらしきたって興すること、日の西山に傾をしらす。


 現在の品川、大崎辺り。千住と尾久辺の間の河原におびただしいすみれの花が咲く名所があったと紹介しています。いったいどれほどのすみれの花が咲いていたのでしょう。酒や肴でドンチャン騒ぎ。現在の桜の花の下で繰り広げられる光景が、すみれの花を前にして同じように行われていたのでしょうか。

尾久の原・桜草 荒川区の桜草の会の方が、色を考えてカラー版を作成されています
摺師 松崎 啓三郎氏

○ 桜草

 尾久の原―王子村と千住とのあひだ。今は尾久の原になし。尾久より1里ほど王子のかたへ行きて、野新田の渡しといへるところに、俗よんで野新田の原といふにあり。花のころはこの原、一面の朱に染むごとくにして、朝日の水に映ずるがごとし。またこの川に登り来る白魚をとるに、船にて網を引き、あるひは岸通りにてすくひ網をもつて、人々きそひてこれをすなどる。桜草の赤きに白魚を添へて、紅白の土産[いえづと]なりと、遊客いと興じて携へかへるなり。

 昔は白魚が隅田川の名物で、尾久あたりまで屋形船をくりだしてさかのぼり、白魚を漁り、岸に着けて桜草を摘んで紅白にして土産にしたというのです。早春の風流このうえない洒落た船遊びがはやった時代があったと書かれています。残念ながらすみれには挿し絵がありませんが、桜草には大変楽しい花見の宴がが描かれています。
 尾久の原での花見の風景ですが、紹介しているすみれの名所と近いことから、すみれの花見も同じであったと思われます。よく見ればすみれも咲いているようで、つくしも見えます。 ( 画家 長谷川雪旦の墨版では、すみれやつくしが見えます?)
 ちょっと花見という雰囲気ではなく、部屋そのままを春の川辺に移した・・・自然を取り入れるというより自然にとけ込む江戸時代の人々の姿は実に楽しそうです。
 その頃の冬の生活は現在に比べて寒く、大変春が待ち遠しかったことでしょう。冬枯れの草の中に咲きはじめ、まさに春の息吹を感じさせるすみれを見た時、人々は我々が今日見ているすみれに対する思いより何倍もの愛情と喜びをもって、この可憐な花を迎えたことと思います。

 寒い冬からの開放感で、川風に揺れるすみれの間を、子供達は駆け回り、「すもうとりばな」
(すみれ) で遊び興じ、少女達は摘んだすみれを花かんざしに、大人達は酒の盃にすみれを浮かべ、文字通り花を添えるかたちで、春の一日、すみれを十分に満喫したことでしょう。



参考文献・江戸名所花暦-生活の古典双書-8  八坂書房刊


Page TOP tea time MENU  HOME

すみれの花咲く谷   Violet Valley
Copyright (C) Violet Valley All rights reserved
inserted by FC2 system